NHKの『オイコノミア』

NHKの『オイコノミア』







山田英世著『ベンサム』という書籍を紹介する。


山田英世の『ベンサム』という書籍はイギリスの哲学者・ジェレミー・ベンサムの人生に関する書籍です。五歳の頃から周囲の人達から「哲学者」というあだ名を付けられ、ベンサムはその勉強と秀才ぶりにより父から法律家として多大な期待を掛けられました(12頁参照)。その後、ベンサムは弁護士になりますが、法律の奥に潜む哲学の問題に深い関心を抱くようになり、イギリスの経験主義哲学の大先輩であるロックやヒュームの哲学の勉強にのめりこむようになります。このようにベンサムが法律の実務面を軽視して原理の方面ばかりに熱中しているのを見て、父は「われ一子を失えり」と嘆いたと言います(34頁参照)。


しかし、ベンサムの社会に対する貢献は偉大でした。ベンサムと言えば、「最大多数の最大幸福」という功利主義です。現代に通じる民主主義の礎を築きました。最大多数の最大幸福という用語は、イタリアの刑法学者のマルチーズ・ドゥ・ベッカリアの著書『犯罪と刑罰』の第一章序論に出てくる「最大多数の最大幸福」という言葉に由来すると一般に考えられています(35頁参照)。ベンサムの哲学ならびに倫理学を知る上で、最も重要な内容を持つ著作は『道徳および立法の原理序論』です。この書籍にベンサムの最大多数の最大幸福の原理のエッセンスが述べられています。「自然は人類を快および苦という二つの君主の支配下においた。われわれがなすべきところのことを指示するとともに、同じく、われわれがなすであろうところのことを決定するのは、ただ、これらの君主だけである。一方においては正邪の標準、他方においては原因と結果をつなぐくさり、この二つはともに快苦の玉座に結び付けられている。われわれが何をしようと、われわれが何を言おうと、われわれが何を考えようと、その全てに快と苦がわれわれを支配する。われわれがこうした隷属状態の事実であることを証明し、それを確実なものにするのに役立つだけである。口では快苦の支配をのがれるのだとうそぶくこともできよう。しかし実際には、依然として四六時中それに隷属したままにとどまるのである。功利の原理はこの隷属の事実を認め、それを、理性と法律の手によって、至福の建物をたてることを目的とする理論体系の基礎たらしめようとするものである。この原理に疑いをさしはさもうとする諸々の理論体系は、意味の代わりに単なる言葉を、理性の代わりに気まぐれを、光明の代わりに暗黒を取り扱うのである」というこの『道徳および立法の原理序論』開巻第一ページの本文はあまりにも有名です(91頁参照)。そして、最大多数の最大幸福の原理を端的に語っています。


ベンサムが功利主義を提唱したのには、前述のようにD・ヒュームの影響が大きいようです。心がある性質を持っていて、それがある行為を導き出した場合、その行為が人間に快とか満足とかの感情を与えるならば、その心の性質は人間にとって有用なものであり、功利性をもつと言われます。このことがその心の性質を有徳的なものにします。つまり一つの「徳」たらしめるのです。つまり功利性こそ徳の根拠だと主張しています(93頁参照)。


ベンサムの功利主義をさらに進化させたのが、ジョン・スチュワート・ミルです。1808年にベンサムはジョンの父であるジェームズ・ミルとあい知るようになりました。ジェームズ・ミルは法律家としてはベンサムにおよびませんでしたが、哲学者として優れていました。しかもベンサムに欠けていた実際的手腕を十分にもっていて、ベンサムの思想を政治改革に反映させたり、あるいはベンサムの思想の宣伝に努め、多くのベンサム崇拝者を率いてベンサムのために尽くしたのです(63頁参照)。そういう経緯もあり、ジョンは父のジェームズから徹底的なベンサム主義の教育を受けて育ったのです。ジョン・スチュワート・ミルは、ベンサムの最大多数の最大幸福という原理そのものは、依然として疑うことのできない真理として承認するのであるが、その「幸福」の概念に大修正を加えたのです。ベンサムの場合には、幸福とは快楽のことであり、快楽はもともと量的なものであって、したがって、計算できるはずのものでした。計算できるというのは客観的だということであって、精神の内部の感情などは度外視されてしまいます。ジョン・スチュワート・ミルは計算できない精神上の幸福感というものを認め、むしろこれが物質上の快楽などよりも優れたものであるとしました。「満足せるブタであるよりは不満足な人間であるのがよく、満足せる愚か者であるよりは不満足なソクラテスであるのがよい」という有名なジョン・スチュワート・ミルの言葉は、ベンサムの精神を受け継ぐとは言え、ジョン・スチュワート・ミルが実質的にベンサムに別れを告げたことの宣言に他なりません(111頁参照)。


この書籍の中で、ベンサムがバーナード・マンドヴィルの『蜂の寓話』という書籍に思想的に影響を受けたことが記載されていました(17頁・88頁参照)。この『蜂の寓話』という風刺詩は私が尊敬するジョン・メイナード・ケインズも影響を受けていたらしく、ケインズの著書『雇用、利子および貨幣の一般理論』にも掲載されています。「ブンブンうなる蜂の巣、またの名を、悪者が正直者になる話です。経済の一側面を非常に興味深く描いている風刺詩でありますので『蜂の寓話』を記載いたします。


バーナード・マンドヴィルの『蜂の寓話』


どんな名誉があってももう借金をして暮らすのでは満足できなかった。


仕着せは質屋にぶらさがり、馬車はただ同然で手放して、堂々とした幾組もの馬はみな田舎の屋敷と借金をかえすために売却だ。


むだな費用も欺瞞も避け、外国には軍隊もおかずに、戦争で得たむなしい栄誉も外国人の尊敬もあざ笑い、正義とか自由が危ない時、ただ祖国のためだけに闘う。


高慢なクローエは


高価な食事代をけずって、じゅうぶんな衣服を年中着ている。


で、その結果はというと-


さて輝かしい蜂の巣に注意し、正直と商売が一致するさまを見よ。


見せかけは消えてみるみる薄れ、まったく別の顔のように思える。


莫大な金額を毎年使う人々が絶えたのみでなく、


それで暮らした大勢の者もやむなく、毎日それにならうことになったからだ。


ほかの商売に飛びつくのがだめで、どこも同じく人があまっていた。


土地と家屋の値段はさがる。


テーベの場合と同じく、その壁が演奏によって建てられた


あっというほどの豪華な劇場も貸家だ。


・・・・・・・・


建築業はまったくだめになり、職人たちに仕事がない。


技巧でならす絵師はなく、石工や彫刻師の名も聞けない。


(間宮陽介訳・ケインズ著『雇用、利子および貨幣の一般理論(下巻)』154頁参照)


山田英世氏の『ベンサム』という書籍を読んで、ベンサムは非常に真面目で、優しく、社会のことを真摯に考えていた人物像が分かります。特に、万人の幸福を願い、人間の幸せを真剣に考えていた心優しき人物だったように感じられました。


【参考】


バーナード・マンドヴィルの『蜂の寓話』


悪の根という貧欲こそは、かの呪われた邪曲有害の悪徳。


それが貴い罪悪「濫費」に仕え、奢侈は百万の貧者に仕事を与え、忌まわしき鼻持ちならぬ傲慢がもう百万人を雇う時、


羨望さえも、そして虚栄心さえもまた、みな産業の奉仕者である。


かれらのご寵愛の人間愚、それは移り気、食物、家具、着物の移り気、本当に不思議な馬鹿気た悪徳だ。


それでも商売を動かす肝腎の車輪となる。


ところが蜂どもは偽善を装って自らの悪徳を攻撃し始める。それがジュピターの耳に届くと、怒ったジュピターは願いをかなえてやろうと蜂の巣を清めて悪徳を一掃してしまう。蜂の世界は一変した。


芝居はおしまい、まるで火の消えたよう。


そして様子はがらりと変わる。


年々歳々莫大な金を落とした客の足絶えただけではない。


それで衣食した多くの民衆もまた仕方がないから同一行動。


商売替えしたくともままにはならぬ、何商(どこ)も動きがとれない超満員。


土地や家屋の値段は下がる。


壮麗眼を奪う宮殿、その壁は、テーベの劇場同様に、遊び事で建ったのだ。


それが貸家という始末、いままでは華やかに鎮座ましますお家の神々、


安っぽい戸口の表札が由緒ある館の刻銘をわらうのを見るよりいっそ果てたい焔の中で。


建築業はまったく廃滅した。


職人に仕事がない。


(吉川洋著『いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ』131頁参照)