令和4年10月20日、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』という書籍を読破した。私が尊敬する安倍晋三元総理の国葬が令和4年9月27日に催され、午後2時48分、友人代表の菅義偉前総理大臣が追悼の辞を述べました。その追悼の辞の中で、安倍晋三元総理が、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』という書籍を読んでいる途中であったことを述べ、



令和4年10月20日、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』という書籍を読破した。私が尊敬する安倍晋三元総理の国葬が令和4年9月27日に催され、午後2時48分、友人代表の菅義偉前総理大臣が追悼の辞を述べました。その追悼の辞の中で、安倍晋三元総理が、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』という書籍を読んでいる途中であったことを述べ、その書籍から歌を引用し、「かたりあひて尽しし人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」(142頁参照)という心情を吐露しました。私は、安倍元総理がお亡くなりになる前にどのような書籍を読み、どのような内容だったかを知りたくて、9月28日に近所の書店で岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』を購入し、令和4年10月20日に読破しました。



私は吉田松陰先生を最も尊敬しているので、松下村塾門下生の山県有朋公も伊藤博文公も基本的には好きである。ただ、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』を読む限り、山県有朋公と伊藤博文公はライバルであり、何度も対立していたことが分かる。伊藤公は政党を作り、政党政治に理解をもっていたが、山県公は終生、政党政治を否定していた。選挙干渉に対して、伊藤公は不当と考えていたが、山県公は不当と考えていなかった(78頁参照)。また、山県公は、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅、田中義一等を従え、山県閥(長州閥)を形成し政治的な地位を高めたのに対して、伊藤公は自己の能力と手腕とについてとかく自信満々たる自信をもち、またそれを誇り、伊藤公もまた人材の抜擢を試みたが、それらのものを用いて当面の必要を弁じた後は、それらの人々のことをとかく顧みなかった。このように伊藤公の周囲には、山県公の場合にみられるような強固な大きな派閥的結合は生れ得なかった(70頁参照)。このように対照的な二人であり、何度も対立しているが、伊藤公と山県公は山県公の邸宅である無隣庵などで会談し(122頁参照)、幾度も解決を図ろうとしていたことを鑑みれば、心の根底では信頼し合っていたのかも知れない(127頁参照)。



幕末から明治、大正を生き抜き、明治・大正時代に大日本帝国の中枢で政治を牛耳っていた山県公を通して見ると、真の明治・大正期の政治史を知ることができる。1885年の第一次伊藤博文内閣に始まり、黒田清隆内閣、山県有朋内閣、松方正義内閣を経て、大隈重信内閣、桂太郎内閣、西園寺公望内閣と続き、日本初の本格的政党内閣と言われる原敬内閣まで、学校では授業時間の関係上、個々の内閣に関して詳細に教えることは少なく、一覧表で覚えていることが多いが、この岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』という書籍では、山県有朋公という主人公を通じて、個々の内閣がどのように誕生し、その間の出来事、策略、策謀、瓦解した理由が語られている。明治・大正時代の政治史を学ぶには最高の教科書である。晩年、山県公は枢密院議長に君臨し、日本国の政治に決して良い影響を与えたとは思えない山県公ではあったが、皮肉なことに、あれほど政党政治を嫌っていたのにも関わらず、原敬を高く評価し(235頁参照)、日本初の本格的政党内閣と言われる原敬内閣の樹立に一役買っているのが面白い。原敬も内閣が安定するため、兵法第三十三計・反間の計(守屋洋著『兵法三十六計』219頁参照)を謀り、山県公と加藤高明(憲政会)とを離間状態に置くことをしきに試みた(230頁参照)。晩年の評価の低い山県公であるが、この岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』の解説にて、空井護氏が山県公の行動を擁護している。政治家とは自らの政治的対立者に対抗して政治権力を獲得し或はこれを維持することを行動目標のひとつとし、そのうちで「権力意志」をもたない者などおよそ考えられないような存在である(272頁参照)。一文字ずつ吟味しながら苦労して創り上げた作品が他人の手で無思慮に、無残に改竄するのを許す歌人などはまずいまい。そして、既存のモノやコトに価値を見出し尊ぶということは、当然ながらそれらのモノやコトの維持と保存に努めることであり、故に保守的な性向・傾向性に繋がるのだ(277頁参照)と述べ、山県公の保守的な行動の根底を説明している。加えて、山県公は三党鼎立による政治操縦を持論としていた(164頁参照)。諸葛孔明の天下三分の計である。



私は民主主義国家を最上のものと考えているので、山県公の晩年の政策に完全には同意できないが、ただ、明治・大正時代に日本の政界の真のトップとして君臨し、そのトップとして君臨した人物が、私の最も尊敬する吉田松陰先生の松下村塾門下生の山県有朋公であり、明治・大正時代の政治を長州藩の方々で動かしていたことには、なぜか喜びを感じてしまった。山県公も終生松陰先生を深く畏敬し、松陰先生を口にする時には常に松陰先生と呼び、松陰先生のことを書く際には必ず「門下生山県有朋」と記していたようである(17頁参照)。余談であるが、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』の中に、山県公は自分は維新前三条の橋にひざまずいて皇居を奉拝した“高山彦九郎”と同様に天皇を神と考えている(157頁参照)という一文がある。この高山彦九郎の戒名である「松陰以白居士」から吉田松陰先生が松陰という号を取ったという説もある。吉田松陰先生も高山彦九郎には大きな影響を受けていた(山岡荘八著『吉田松陰(1)』316頁参照)。一方、松陰の号は吉田松陰先生の生まれ育った松本村から取ったという説もある(山岡荘八著『吉田松陰(2)』9頁参照)。



2020年9月16日、安倍元総理が総理大臣在籍日数3188日となり、第一位となりましたが、それまで第一位(現在、第二位)だった同じ長州藩の桂太郎内閣に関して、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』という書籍を読む限り、桂太郎内閣中、絶えず色々な困難な出来事が起き、よく2886日も在位できたものだという感想をもった。また、山県公が君臨し、何でも強行に政策・法案を成立、実行していたように思っていたが、増税案(100頁参照)など、政府が法案を通すのに非常に苦慮し、度々、失敗していることも、この書籍で知ることができた。



岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』において、121頁2行目、「いわねぱならない」とあるが「いわねばならない」、180頁14行目の「答えた」とあるが「応えた」の間違えであろう。77頁にビスマルクをビスマークと、220頁にレーニンをレニンと記載されている箇所に少し違和感を得た。



現在、私は、時間とお金の余裕ができたら山県公が建てた椿山荘に行き、のんびりと英国風にアフタヌーンティーをしたいと思っている。2015年、NHKにて吉田松陰先生の妹である杉文さんを主人公にした大河ドラマ『花燃ゆ』が放送されていた時、私は、その年の夏に山口県萩市に行き、萩にあった花燃ゆ館へ行った。花燃ゆ館のアトラクションに志士占いのようなものがあり、その時、私が引き当てた志士が山県有朋公であった。今も山県公のカードは家にあります。何か運命を感じる(笑)。安倍元総理は、岡義武著の『山県有朋-明治日本の象徴-』を読み、何を感じていらっしゃったのであろう。安倍晋三元総理大臣へ哀悼の誠を捧げます。